LOGIN「私は――」
続く言葉が喉の奥で詰まって、うまく出てこない。口の中が乾いている。
胸の鼓動がうるさくて、自分の声すら掻き消されてしまいそうだった。それでも、俯かなかった。
「お金は、もう渡せません」 自分の口から出たとは思えないほど、はっきりとした声だった。「……は?」
「百万は渡しません。これから先も、あなたにお金を渡すつもりはありません」 大雅の口元から、引きつった笑みが消えた。隣に座るスーツ姿の男が、組んでいた腕をわずかに動かした。
けれど何かを言う様子はない。「な、何言うてんねん」
大雅は凜を見つめたまま、乾いた笑い声を漏らした。「姉貴が金を渡す言うたから、わざわざ来たったんやろが」「それは、あなたと話をするためです」「嘘ついて呼び出したん
翌朝九時。 KWS本社の会議室で、理玖は欠伸を噛み殺しながらノートパソコンの画面を睨んでいた。 ブラインドの隙間から入り込む陽射しが、短い仮眠を挟んだだけの目に沁みる。 白川ホールディングスのシステムは、一部を除いて復旧が進んでいる。 だが、KWSを取り巻く状況は別だった。 昨夜からニュースサイトには関連記事が増え続け、KWSの名前は何度も見出しに上がっている。 前日に大きく値を下げた株価も、まだ安心できる状況ではない。 システムだけ直せば終わる話ではなくなっていた。 復旧したと発表したところで、原因が分からないままでは同じことがまた起きると思われるだけだ。 KWS側に問題がなかったとしても、それを証明できなければ意味がない。 そして、肝心の原因もまだ分かっていない。 理玖は重くなった瞼を指で押さえ、再び画面へ目を戻した。「社長」 向かい側に座る高遠希美が、ノートパソコンの画面をこちらに向けた。 理玖と同じくほとんど寝ていないはずなのに、芯の通った声はいつも通りだった。「お前、眠くないのか?」「眠いですが、仕事ですから。それよりも、見てください」 理玖は希美のノートパソコンを覗き込む。「白川から届いた、追加の資料です」「何の資料だ?」「白川が以前から契約している外部業者の一覧です。旧システムの保守や、今回の移行作業で一時的に権限を持っていた業者も含まれています」「KWS側じゃなく、白川側の業者か」「はい」「全部出してきたのか?」「はい。白川紗夜さんから、調査に必要なものは全て開示するよう指示があったそうです」「……そうか」 堂島の紹介があったとはいえ、今回の案件をKWSへ持ち込んだのは紗夜だ。 白川ホールディングス内では、その采配の是非を問う声も出始めていると聞いている。 それでも、紗夜がKWSへ責任を押しつけるような
凜は何度目か分からないくらい、スマートフォンの画面を確認した。 いっそメッセージを送ろうかとアプリを立ち上げては、指が止まる。 朝以来、理玖からの連絡はなかった。 冷蔵庫には、約束した大きなステーキ肉が入っている。 帰ってきたらすぐ焼けるように、付け合わせの準備も済ませてあった。――今日も遅くなるんかな。 テレビを点ければ、きっとKWSのニュースが流れている。 いつもなら適当に番組を探すところだが、今はリモコンに手を伸ばす気にもなれなかった。 時計の針が午前零時を回った頃。 玄関の方から小さな音がした。 誰かを考えるより先に身体が反応した。 ソファから立ち上がり、駆け足気味に玄関へ向かう。「まだ起きてたのか」 そういった理玖の目元には、深い隈が刻まれていた。 昨夜は糊が効いていたシャツも皺が目立ち、襟元まで乱れている。「……帰ってくるって言ってたから」「こんな時間まで待つ必要ないだろ」「でも、待ってるって送ったし」 理玖が一瞬、黙った。「……悪かった。連絡できなくて」「ううん」 理玖が靴を脱ぎ、凜の横を通り過ぎる。「理玖」「ん?」「おかえり」 理玖が足を止めた。 少しして、振り返る。「……ただいま」 凜はキッチンへ向かい、冷蔵庫から冷えた麦茶を取り出す。 マグカップに注いで戻ると、理玖は背もたれに身体を預けたまま目を閉じていた。「はい」「ありがとな」 テーブルに置くと、理玖はゆっくり身体を起こしてマグカップを手に取った。 一気に半分ほど飲み、短く息を吐く。 凜も左隣に座る。 何か話したいのに、何を言えばいいのか分からない。 壁時計の秒針の音が響く。
午前九時を回った頃。 KWS本社に戻った理玖は、数名の社員と会議室に籠っていた。 会議室の外では、電話の鳴る音が途切れることなく響いている。「社長。主要顧客からの問い合わせが、すでに二十件を超えています」 高遠希美がタブレットへ視線を落としたまま告げた。「内容は?」「自社の監視体制に問題はないのか。同様の異常は確認されていないのか。それから――」 希美はわずかに間を置いて続けた。「契約の見直しを検討したい、という連絡も二社から」「……早いな」 理玖は椅子の背に体重を預け、目頭を指先で揉む。 一睡もしていないせいで、目の奥が重い。 白川にはKWSの対応チームを残してきたが、認証基盤はまだ完全には復旧していない。 侵入経路も特定できていなかった。 それなのに、問題だけが先に広がっていく。「それと、もう一つ」 希美が声量を落としてタブレットの画面を切り替えた。「市場が開いてから、KWSの株価が下がり続けています」 理玖は黙って画面を見る。「現在、前日比マイナス八・一パーセントです」「……そうか」 予想していなかったわけではない。 KWSは、企業の情報と安全を守ることを売りにしている会社だ。 そのKWSが担当する企業で、大規模なシステム障害が起きた。 投資家が不安を覚えるには、それだけで十分だった。「顧客への回答を優先しろ。契約先には個別に状況を説明する」「承知しました」 希美がすぐに頷く。「広報への取材は?」「朝から増え続けています。国内だけでなく、海外メディアからも数件」「現時点で確認できていないことは答えるな。白川側とも内容を合わせろ」「はい」 理玖は息を吐き、目の前に置かれたコーヒーへ手を伸ばした。 いつ置かれたものなのかも覚えていない。 口に含
目を覚まして隣を見ても、理玖の姿はなかった。 そっと手を伸ばして枕に触れてみる。 冷たい。 昨夜、白川から連絡を受けて出ていった理玖は、結局一度も帰ってこなかったらしい。「……何があったんかな」 スマートフォンを確認する。 理玖から連絡はない。 何かメッセージを送ろうかとも思ったが、邪魔をしてはいけない気がして、そのまま画面を閉じた。 朝食の準備をする。 いつもの癖で味噌汁を二人分作りかけて、途中で手が止まった。――今日は、うちだけやんか。 自分一人分だけの朝食をローテーブルへ運ぶ。 窓から射し込む朝陽は暖かいのに、部屋の中は妙に静かだった。 ここへ来たばかりの頃なら、何とも思わなかったはずなのに。 最近は、隣に理玖がいることに慣れてしまったらしい。 凜は箸を手に取りながら、テレビの電源を入れた。『続いて、昨夜から白川ホールディングスで発生している大規模なシステム障害についてです』「……え?」 箸が止まった。 画面には、見覚えのある白川ホールディングスの本社ビルが映っている。『関係者によりますと、昨夜遅く、白川ホールディングスの複数部署で、社内システムへ接続できない障害が発生したとのことです』 淡々と読み上げるアナウンサーの声に合わせて、テロップが流れる。【白川HD 複数部署でシステム障害】『現在も原因の調査と復旧作業が続けられているということです』「そんな……」 昨夜の理玖の表情が蘇る。『分かった。すぐに行く』 電話を受けた途端、それまでとはまるで違う顔になった。――あれから、ずっと……?『また、白川ホールディングスでは、情報セキュリティ企業のKurose Web Securityがシステムの監視を担当しています』 息を呑む。
『それだけじゃありません。一部の管理者アカウントだけ、逆に制限が緩められています』 理玖はスマートフォンを耳に当てたまま、目頭を押さえた。「対象は?」『三つです』「その三つの履歴を洗え。何に使われた」『確認します』 通話の向こうで、キーボードを叩く音が続く。 数秒後。『……ありました』 担当者の声が低くなる。『三つのうち一つから、新しい管理者アカウントが作られています』「白川が作ったものじゃないんだな?」『登録記録がありません。名前だけ見ると、保守用のアカウントに見えます』 理玖は運用責任者へ目を向けた。「新しい管理者アカウントを追加したか?」「いえ。少なくとも、私の許可では一つも」 男の顔から血の気が引いていく。「新しいアカウントの名前は?」 KWSの担当者から告げた文字列を伝える。 運用責任者はすぐに首を横に振った。「そんなアカウントはありません」 理玖の中で、最後に残っていた可能性が一つ消えた。 正規の変更ではない。 何者かが管理者権限を使い、自分たちだけが通れる入口を白川の中に残していた。「そのアカウントは使われたか?」『はい。障害が起きる直前に、認証基盤へアクセスしています』「その先は?」『まだ追っています』「分かった。続けろ」 電話を切り、理玖は運用責任者を見る。「今言ったアカウントを無効化しろ。それと、制限を緩められた三つも止めろ」「分かりました」「他にも同じものが作られてないか全部確認しろ。勝手に設定を戻すな」「はい」 社員たちが一斉に動き始める。「黒瀬さん」 紗夜が理玖の隣へ立った。「つまり、誰かが中に入るためのものを残してたってことね?」「……そうだ」 今度は
白川ホールディングス本社に到着した時には、すでに日付が変わっていた。 にも拘らず、フロアにはまだ多くの社員が慌ただしく動き回っていた。 中には、髪に湿り気を帯びたままの社員もいる。「黒瀬さん」 紗夜が早足に近付いてくる。「何が起きた?」「社内の認証基盤で障害が起きてるの。予備系に切り替えても改善しない。複数の部署で、業務システムに入れない社員が出てる」 理玖の眉間に皺が寄った。 認証サーバーの一台が故障するだけなら、そこまで珍しい話ではない。 だからこそ、障害が起きても業務を止めないように予備系が用意されている。 それまで同時に機能しないとなれば、話は別だった。「担当者は?」「向こうよ」 紗夜に案内され、理玖は数人の社員が集まっているデスクへ向かう。「状況は?」 声をかけると、担当者がすぐにノートパソコンをこちらへ向けた。「サーバー自体は生きています」「応答はあるのか?」「はい。ただ、認証処理だけが正常に通りません。予備系も同じ状態です」「同時に?」「ほぼ同時刻です」 理玖は画面を覗き込む。 サーバーそのものが停止しているわけではない。 ネットワークからも切断されていない。 それなのに、社員が送った認証要求だけが弾かれている。――故障なんかじゃない。「直前に設定変更は?」「確認します」 担当者が操作する。 数秒後、その手が止まった。「……あります」「見せろ」 表示された時刻を見て、理玖の背筋に冷たいものが走った。 一昨日、二十二時七分。「何が変更された?」「認証サーバーに適用される設定の一部です。ただ……」「ただ?」「変更したアカウントは、正規の管理者アカウントになっています」







